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2015.01.23 80年ー6
叔母につれられて行った東京駅八重洲口、当時はまだ八重洲のホームから東京湾が見えていたが中央区のその工場へ行くとそこはまだ急増のバラック建ての工場、面接だけで、明日から来なさい、住込みの方が好いよと言って主人が立ち去ると、奥さんが世間話を交え乍ら仕事の話をしてくれるのだが、工場の中は薄暗く2,3人の人が働いているようだが、あの中でこれから自分もここで働くことになることが実感出来なかったのを覚えている。ここえ来る途中で見かけた東京の町は至る所がまだ焼跡、こんな所で田舎から出てきたばかりの私が仕事と住いと学校など一気に見付けられるはずがないと観念した。
取敢えず千葉から通勤する事にした。
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2015.01.19 何だこりゃ
昨年11月中旬入院下旬退院、12月上旬又入院11日退院やれやれもういいか、体力が回復したらブログ復活のつもりが年明けと共に体調不良、の他今度は目も、流石にパソコンどころか本やテレビもよく見えず完全ギブアップ、覚悟を決めて完全休養、15日頃から少しずつ動き出した今度は宣言等はしないで。
2015.01.06 80年ー5
私はといえば中学3年になった時にはすでに自力での高校、大学行きを覚悟していた。が、此処では叶わないと思い密かに東京行きを決意、その準備をした調べると、当時はまだ東京の高校には夜間部のある学校がかなりあった。
中学3年が過ぎると卒業式も待ちきれず、かねてお願いしてあった千葉市内の親戚の家に身を寄せた。すぐ職業と夜間部の学校を探すことにした。するとすぐ叔母が、どうやって探すのと言うから地図を便りと言うと西も東も分からない東京でそれは大変だから土地に慣れるまで私の身内が中央区で工場をやっているからそこで働けばと言われ、すぐそこで働くことにした。
昭和25年4月のことでした。
2015.01.06 80年ー(4)
7人の子供を抱えた母は、上の2人は働きながらの学校なので母の助けにはなったらしいのだが、当時は6人8人の兄妹の家族は珍しくなく戦争の為父親不在の片親家族が多く当然皆貧乏でしたが、今思うと日本中皆貧乏だが、頑張れば何とかなる、と言う様な先の見える明るい貧乏だった様な気がする。
又、6人7人兄妹の家庭等いくらでも有ったし皆兄妹喧嘩しながら元気に逞しく育っていった。今は1人の子供を育てるのに苦労する時代2人3人になると大変、生活が成り立たなくなってしまう。日本国の人口減少等当然。
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