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12月12日午後、今迄のかすかな呼吸が大きく乱れてきた、無駄と思いながらも耳もとで呼びかけをしてみる、もう反応はない、とうとう連れて行かれてしまうのか、主治医の15時40分御臨終ですの言葉ですべてが終わった、妻の頬に手をあてると一筋の涙、今迄の感謝の涙か、先に逝ってしまう悔し涙か、私も胸がつまり涙してしまう。ややあって「如何致しますか」の担当看護師の声に「ハアッ、と我に返りハイっ、最近は度々オウチカエリタイと言っていましたので、そうするように葬祭業者にお願いしてあります」、「そうですか、でわ早速仕度いたします」、私は冷たくなった妻の頬を撫でながら「御苦労さん、もういいんだよ、さあオウチ帰ってゆっくり休もうね」、、、終わった、、、みんな、、、改めてやり場のない怒りと悲しみがこみ上げてきた。
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近ごろは中々自分の意志が伝えられないもどかしさからか、私の目をみて涙を流すようになった。可哀相に、病の魔の手に引かれているのだろうか。手を握っても握り返さなくなった。其のままでいいからどうか私の傍にいて心の中で叫んでも、呼んでも、少しずつ、少しずつ私から離れていく。12月7日深夜病院から呼出し、急いで駆け付けると何時もと違うようなのでお知らせしましたと看護師、見ると僅かでわあるが苦しそう、耳もとで声掛けしても反応しない、何もしてやれない、ただ呆然と手おこまねく、世界中の科学者が立ち向かう中ものともせず、癌という病が堂々とヒトを連れていく、どこへ。
主治医の宣告時も過ぎた11月に入って目に見えて衰えてきた。毎日傍にいても何も出来ないが、透析の日は半日、以外は終日と病院に通った。そんな或る日、「今日は顔色が良いいね」、「うん」、「これ、食べる?」家で食べ易い様に切った梨を見せた「なに?]」「梨だよ」、と口もとえもっていくとビックリする勢いでパクリあとはシャキッ、シャキッ、病室中に響く程の大きな音で、シャキッ、シャキッ。まるで生きていることを誇示するように。かなりの量を食べた、「おいしかった」、「うん」、「よく冷えていたからね」、嬉しそうな顔をして、「うん」、「もうすぐ、梨の時期も終りになっちゃうよ」、「うん」、「こんなに長い入院生活するんだったら二人でお金をもっと使って楽しめば良かったね」、「うん」、もう会話らしい会話ができなくなっている。
3日間の検査の結果長年だまし続けていた腎臓がダウンして糖尿病性腎症に、妻の容態を気使いいながら入院しての透析
妻には私の弟から状況を伝えてもらったが、動けない我が身を悔んで涙していたという。
週3回目の透析後体調診察の後、付添え付の外出許可がでたので妻の入院先え病衣のままタクシーで飛んでいった。
病室にはいると妻は痩せ細った手を高く上げ、顔一杯の笑顔で涙を流した。夜などこの病室でどんな想いでいたのだろうと思うと胸が悼む。「ごめんね、心配したろう」、「うん、もういいの?」、「次の土曜には退院できるけど、週3回の透析になっちゃたよ」、「そう」、10日も逢えなかったのにたったこれだけの会話で解りあえるのは長年の夫婦の妙なのかも。
「退院したら、今度は透析日でも半日はここえこれるからね」、「うん」、病は言葉も奪ってしまったようだ。
9月になって急に元気がなくなり自力でベットから降りることも又、歩行も車椅子になってしまった。

私は、6日に主治医呼ばれ言葉みじかに、「あと、ふた月ほどです」、の宣告、返事の言葉も出ない。
「最期の時、延命処置なさいますか?」と、聞かれすぐに言葉が出なかった。「いえ、自然に、出来るだけ苦しまない様にしてやって下さい」、と言うのがやっとだった。
平静を装って病室に戻った私に妻は「何か言われた?」「うん、外泊中のこと」、あまり上手な嘘が言えない。とに角毎日朝から病院通い。

今度はもともと持病もちだった私が救急車で大学病院へ、私の事情を知っている主治医の、奥さんに急変があれば当院で看護師付で外出許可を出しますの説得に折れ、そのまま緊急入院、夫婦で別々の病院に入院する最悪の事態になってしまった。
すぐに2度目の外泊許可が24日にでた、今度は3泊4日、妻は単純に大喜び、途中の買
物中にもどこかいこうかしら等とはしゃいでいる。わたしは看護師長の出がけに言った
「いっぱい愉しんで来てくださいね」の言葉が気になってしかたなかった。
ところが、外泊許可で帰っているのを聞きつけた日頃親しく仲間が大勢集まってきた。

妻は大喜び、暫く歓談のあと「ねえ、いつものようにこのままパーテイにしようよ」と言い出す
遠慮する人達を、かなり強引に引止め、さっさと仕度を始めた。あまり見たことのない妻の
言動に異常を感じたが、とにかく妻の気持ちを最優先限られた時を過ごす事にした。
妻は、「3泊4日すぐ終わっちゃたね」、と言って病院に帰った。
[楽しかった」、「うん、よかったね」ふと、見つめ合った。
8月10日一泊二日の外泊許可急いで病院を出て,久しぶりに二人で買い物、家内もあれや、これやと手が忙しく動き、たちまち買物かごが山になる、2週間ぶりの我家に入るなり「うれしい、私のベットが前のままだ」と大の字になる。やはりあそこにいると、はかり知れないプレッシヤーが懸るのだろう。

お互いに次はなにを話そうかと、だまりこくってソファに並んで座ってしまった。やがて、妻は秋冬物でもと長期戦にそなえはじめる。
わたしには、妻の行動が目に見えない何かに引かれている様に見えてならない。
いつかはお世話になるだろうと二人で見学はしたことはあるのだが、わたしには異様な雰
囲気を感じさせる病院だった。
7月28日入院、H19年夏余命1年半を宣告されたが、セカンドオピニオンで癌研、さらに大
学病院と巡り6年あまり、宣告された余命よりもかなり延びはしたが、ついに妻の命の走りも
止まってしまうのかと胸がつまってしまった。世界中の科学者達が懸命に努力していても、
第4ステージを越した癌を征服することができないのか。
こうなっては運命にしたがって出来るだけ支えていくしかないと覚悟をきめた。
夏の陽射の厳しい午後、外来点滴を終てなぜかいつもと違う笑顔で、待っていた車に乗り込んできた。なにかあったのと聞くと「うん、入院することに決めてきちゃった、いいでしょ」。「ん、」言葉に詰まった,
たてつづけに「今、病室が空いているんだって、良い部屋だそうよ」と、まるで新居えの引越の様。

しかし、そこは終末期医療病院、すでに自身、覚悟が出来てしまったのだろうか、じつにあっけらかんとしている。身に詰まる。

H19年10月下旬いよいよ抗癌剤治療がはじまった、すると予想をしていたよりはるかに軽い副作用なので、出来るだけ通常の生活を心掛ることにした。幸い100キロ圏内到る所に温泉がある。
取敢えず近場の温泉からと、子供のいない気軽さも加え毎日出歩き僅かばかりの蓄えだができるだけ使うことにし夫婦の想い出を少しでも多く作る生活を心がけた。

だが、限られた妻の生命、だんだん外来点滴の日数が増えるようになってきた。
診察室に入り医師と一通りの挨拶がすむと病歴書を見ながらすぐ、今迄のこの抗癌剤は効いていませんよと言う、えっと言うと、だから転移するんだよ、と、事もなげに、もうこうなると治らないがこうすればまだ癌と仲良く御つき合えますよと言われた。

その方法で治療の出来る医師名の教えを受けたが、医療の世界にも地方格差があるのかと、みょうに感心しながらもその医師のいる大学病院に転院、H19年から新しい抗癌剤治療を始めた.
40年連れ添った家内が、H17年夏大腸癌を宣告され緊急手術、私には余命1年半の通告がされた
えーっ余命1年半、うそでしょ、中々すぐには受けとめることが出来なかった、しかし1年後に転移、とりあえず再手術、ところがすぐに又転移、今度は余命1年半が納得できずセカンドオピニオンを申し出、急拠東京有明の癌研え走った。
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