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長かった寒風から開放されて、万物の霊長揃って深呼吸、東北の寒気が長いだけに花期は凄い梅、桜、つつじ、藤、等々が次々に咲く先日、春風に誘われてちょと早いかなと思ったがこの地方の、花見人気コースをドライブしてみた。我が郷土のスーパースター(ナマハゲ)君も延び延びと雄叫びを上げていた。
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2015.04.14 80n年ー11
仕事はきつくないが、長時間労働には参ってしまった。それに、勉強する事がいけない事だと言う、つまり仕事は手で覚えるものだから勉強などしなくていい勉強する暇があったら仕事をしろが親方のポリシー。親方には腕一本でここまでやってきた自負とまだまだ技術だけで事業を拡大出来る自信があるのだろう、そこえやたら向学心に燃え立つている若者が弟子として現れて戸惑っている様だ。私としては分かっているが、目指している所が違っている。
2015.04.13 80年ー10
5月、6月になっても一向にこの忙しさが収まりそうにない。朝7時半始業夜10時半終了が毎日続く、11時やっと自由になった時はもう夜中、小さな電機スタンドの明かりを頼りに1時間程でもう限界、こんな日が暫く続いて悩んでしまった。対策を考えよう。所がこちらが対策をとる前に親方に叱られてしまった。「お前さんはここへ、仕事に来たのかい、それとも勉強しに来たのかい」親方は生粋の江戸っ子、歯切れいいだけに余計皮肉に、聞こえる。後で聞く所によると、親方は小学3年で学校をやめてこの道に入った人だと言う。成程、腕一本でここまで来た人勉強なんかしなくてもと言うことか。
2015.03.29 うべなるかな
先日何となくテレビを見ていたら、全国方言が残っているランキングで、わが郷里が、晴れがましくも?第3位、成程みように納得、ごく最近の事、透析治療の身の日課の一つに、左手の血流音を聞く仕事がある、或朝、目の前の古参看護婦に「お早う」と挨拶するといきなり「オトコキタカ」咄嗟で意味が分からず「えっ」と、またも「オトコキタカ」すぐに「誰のことですか」と聞きかえすと近くにいた看護婦さん達が笑い出して通訳「音を聞いたか、と言ってるんですよ」と言う、俄に飲み込めずにいると「音っこ、聴いたか」と言っているんですよという。あまりに違い過ぎる聞き取りに妙に納得、我ながらあきれ古参看護婦に気遣いして笑いを飲み込んだ。
   気を取り直して次の人どうぞと部屋に入れる、呼ばれて男は名前を名乗って履歴書を折った侭差し出した、受け取って広げると中からメモが出てきた、彼は慌ててあっすみませんと手を伸ばしたので彼にメモ渡す僅かな間に見ると、彼の今日の就職活動は1 00そば屋2 00書店3  当社4 修理工場とメモってある、履歴書を見ながら皮肉を込めて「今日は忙しそうだね」と言うとてれもせず「あっ、はい」[これは、どしてこういう順番になるの?」「はい、駅に近い順です」うーん、彼の顔を見ながら呆れてしまった。これからやる自分の仕事の事などどうでも良いらしいとてもこんな人は採用出来ない。  まだまだ続く人手不足を改めて覚悟する。  あの人達はー今どうなっているだろう。


  
春の遅い北国でも3月になると、外に出た途端に春の香りがふっと頬を通り越していく、hana2.jpg
この風の匂いに触れると北国の人達は何となくヨシッとなる。農業県のせいだけではない、
私は農業とは全く関係ないのだから。
春はイイ、何となく力が漲ってくる。




2015.03.09 80年ー9
何度か退職を申しでて見るが、その都度身内えの温情を絡めた説得に会い翻意、ならばと意を決して通信教育の受講をする事にした。早速申込、送られてきた教科書の多さに驚き、どう取り組むか考え込んでしまった。生活が親方の家族と同じだから仕事を休んで勉強等到底出来ない。苦肉の策として屋根から吊り下げる机を作って僅かな時間でも勉強することにして普段は上に上げておくことにした。   これであとは時間をどう作るか。
今日は早くから3人の面接、午前中に終わりそう、「最初に来た人からどうぞ」と声をかけても入って来ないので覗いて見ると3人で譲り合っている、あーあ今日もだめかと失望しながらも一番近くの人に部屋え入りなさいと声を掛けてやるとやっと動いた、お願いしますと言って名乗り履歴書を差し出した、見て驚いたのは関西の著名な大学経済学部卒然も、1年半で職歴が6社、「募集要項にもありますが工員の募集なので大卒はいりません」「だめですか」「無理でしょうね1年半で6社む職が変わるような方ではとても続かないでしょう」」わかりました」あっさり引き上げようとしtふぃるので「君、何かやりたい事があるのか」と聞くと「いや別に」と如何にも煩いと言わんばかり。    あの人は今頃どうなっているだろう。
2015.02.23 80年ー8
身の回り品だけ持って来ると、じゃあ此処だよと、与えられた部屋は梯子で屋根裏部屋へ、到底歩くことも出来ないのであとは四つん這い。呆然と、暫く座り込んでしまった。与えられたこの環境の中で望みが果せるだろうか不安になった、
案の定不安は的中、特に2,3,4、月くらいと言うが朝7時半から夜10時半まで、その上追込みと称して深夜12時、1時迄その上徹夜作業、兎に角親方が終わりにしよう、と言うまで全員もくもくと働くこれでは夜学など到底不可能とあきらめる。
昭和55年代のバブル期,都会のホワイトカラーに憧れて、農村地帯から若い人達がどんどん都会に流れ込み、一気に農村部の若い人達がいなくなり、休耕田が増える要因に、i一方都市部ではより良い(仕事)を求め、求人誌を見ながら若者たちが企業を走り回る、彼らにとって良い仕事とは(給料が高い)(仕事が簡単)(通勤時間が楽)のコンセプトでの就活だから職務に対しての興味など殆ど感じられない。従って企業側も中々採用には至らない。   
 あの人達は今どうなっているだろう。

2015.02.09 明眸皓歯
昨年後半、入退院を繰り返している内あることに気付いた。ここは美人の国と言われるだけあって看護婦さん達が皆美人、今、病んでいる80歳の身でも美しい看護婦さん達に囲まれると「ほわん!!」と少しだけでも幸せな気分になるから不思議、ところが10月に入ってすぐ、インフルエンザの影と共に全員マスクそれも飛び切り大きなもの、揚句色白のおでこに切れ長の黒目にあと半分は白いマスク。 あの明眸皓歯の彼女たちも、 おでこと目だけの (でこ目美人)に。はチト可哀想??。
今から40,4,,5年程も前になるだろうか、,当時私の会社は始終人手不足になっていた、私の思惑などとは関わりなく社業が膨らんでいったせいもある。そのせいか当時の「アルバイトニュース」は格好の求人手段ではあったが中々良い人材を確保する事も大変だった。「初めまして、よろしくお願いします」この初対面の挨拶も言えず私が話を切り出すまで俯いている人が殆ど、履歴書をと言われて慌ててポケットから出す始末,この初動態度で殆ど殆ど不採用になってしまう。
アルバイト慣れしている人達だから即決を望むからこちらも採用はできませんねと言うと、そうですかとあっさりと引き下がってしまう。もう35歳にもなって将来目的もなくバイト探しのつもりでこられてはこちらも気が乗らない。
あの人は今どうなっているだろう。
2015.02.04 80年ー7
通い始めて戸惑ったと言うより驚いた、通勤は朝8時半なのだがすぐ住込みしてくれと言われる,住込みは朝7時半始業、終業時間は主人が「終わります」の合図迄、休日は第1第3日曜日だけその上6年間の年季にしてくれと言う,あまりに古い言葉なので咄嗟には返事が出来ない、その上この職場環境ではとても夜間部の学校など無理だな等と考えていると「だめなのか」と畳み掛けられてつい「い、いえ」と言うと、すかさず「じゃあ明日荷物を持ってきな」といとも簡単に6年間の年季という拘束を言渡された。
昭和25年、まだ年季奉公等と言う古い雇用制度が残っていた。
2015.01.23 80年ー6
叔母につれられて行った東京駅八重洲口、当時はまだ八重洲のホームから東京湾が見えていたが中央区のその工場へ行くとそこはまだ急増のバラック建ての工場、面接だけで、明日から来なさい、住込みの方が好いよと言って主人が立ち去ると、奥さんが世間話を交え乍ら仕事の話をしてくれるのだが、工場の中は薄暗く2,3人の人が働いているようだが、あの中でこれから自分もここで働くことになることが実感出来なかったのを覚えている。ここえ来る途中で見かけた東京の町は至る所がまだ焼跡、こんな所で田舎から出てきたばかりの私が仕事と住いと学校など一気に見付けられるはずがないと観念した。
取敢えず千葉から通勤する事にした。
2015.01.19 何だこりゃ
昨年11月中旬入院下旬退院、12月上旬又入院11日退院やれやれもういいか、体力が回復したらブログ復活のつもりが年明けと共に体調不良、の他今度は目も、流石にパソコンどころか本やテレビもよく見えず完全ギブアップ、覚悟を決めて完全休養、15日頃から少しずつ動き出した今度は宣言等はしないで。
2015.01.06 80年ー5
私はといえば中学3年になった時にはすでに自力での高校、大学行きを覚悟していた。が、此処では叶わないと思い密かに東京行きを決意、その準備をした調べると、当時はまだ東京の高校には夜間部のある学校がかなりあった。
中学3年が過ぎると卒業式も待ちきれず、かねてお願いしてあった千葉市内の親戚の家に身を寄せた。すぐ職業と夜間部の学校を探すことにした。するとすぐ叔母が、どうやって探すのと言うから地図を便りと言うと西も東も分からない東京でそれは大変だから土地に慣れるまで私の身内が中央区で工場をやっているからそこで働けばと言われ、すぐそこで働くことにした。
昭和25年4月のことでした。
2015.01.06 80年ー(4)
7人の子供を抱えた母は、上の2人は働きながらの学校なので母の助けにはなったらしいのだが、当時は6人8人の兄妹の家族は珍しくなく戦争の為父親不在の片親家族が多く当然皆貧乏でしたが、今思うと日本中皆貧乏だが、頑張れば何とかなる、と言う様な先の見える明るい貧乏だった様な気がする。
又、6人7人兄妹の家庭等いくらでも有ったし皆兄妹喧嘩しながら元気に逞しく育っていった。今は1人の子供を育てるのに苦労する時代2人3人になると大変、生活が成り立たなくなってしまう。日本国の人口減少等当然。
11月17日緊急入院、不覚にも肺炎、、1週間の安静の後幸い26日退院、これから又まえ通りにいつもの週3日の人工透析とブログ」の公開に精を出す生活にカンバック!!。
と思いきや何と、このブログ公開前に再び12月2日入院11日、80歳と言う年齢は身体的には十分な高齢者なんだからくれぐれも、気お付けて下さいと主治医に注意されて11日に退院、少し自重してそろそろブログ復活。
2014.11.06 80年-(3)
その後、佐世保から父母の故郷秋田へたどり着いたのは大晦日の3日前だった。
農業県とはいえ終戦直後の秋田はやはり食糧難だった、20才を先頭に6人の兄妹を抱えた母は大変だったようだ。
私はといえば国民学校から小学校の切り替えで少し自宅待機、その後、学制改革のためまた待機、漸く現在まで続いている<新制中学>へ当時はまだ物資不足、試験の答案用紙等は消しゴムを使うと破れてしまう、かなり粗悪な藁半紙だったのが想い出にある。、
2014.11.03 80年(2)
国境の街(現中國東北部)に住んでいたので、ソビエトが参戦の報せと同時に、家族全員が手に持てるだけの荷物を持って家を出たのが8月20日頃、母と私を含めて6人兄妹は中國各地を逃げまどいながらおおよそ3か月半子供ながらもうくたくたになっていた。
長崎に着くと一つ所に集められ消毒と称して全身にDDTをかけられた。お互い全身真っ白にして兄妹どうし大笑いしたのが忘れられない想い出に残っている。
2014.10.24 80年~(1)
9月末入院した、3日間の短期だったので、本なし勿論。パソコンもなしだったので柄にも無く80年の回想をしてみた、子供時代の戦争体験は中國、終戦と同時に父はソビエトに抑留、私たちは母とほうほうの体で南下、天津で米国の小さな上陸用舟艇に詰め込まれ、長崎県佐世保港へ、苦労してたどり着いたその時の美しい日本の国の光景は、今でも頭に焼き付いて離れない。
秋探しの麓道で見つけた、茅葺屋根の集落,4,5軒だがもう廃墟になっているのかかなり荒れはてている。
その昔、どんな人達がどんな暮らしして居ただろうか、付近には電線も無く勿論家々に電気が引かれた様子もないが近年迄住人が居たという、さぞや昔ながらの暮らし、今の近代的な暮らしからは想像も出来ないものだろうと、想いを掻き立てる様な佇まいは、そのまま時が止まってしまった様にシン、としていた。
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2014.10.20 秋!秋!秋!
毎年此の頃になると沿道の田んぼが気になる、黄色の稲穂がたれ下がっていると農業でもないのに何となくほっとする.稲穂が色ずきはじめると北国の秋はせわしなく瞬く間に寒くなる。稲も蕎麦もあっという間に実り、あっという間に刈られ
静かに雪を待つ。この時期は短い華やぎの時、間もなく雪の季節を迎える。この項の制作中に体調不良で入院、やむなく中断中に秋が行き過ぎてしまいました。何とも腹立たしい高齢だがこのまま公開。


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2014.09.13 秋、見つけた
独り身になって出不精になった、一昨年の今頃は小旅行の連続だったのだが、こんなところで究極の秋を見つけた。
紛れもなく街のど真ん中、林檎ロード、たわわに実っていました。
背景の建物は小学校、子供たちが育てているそうです。おいしい林檎ができるといいね。
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